2023/4/16: 不易流行(松尾芭蕉)
2023/4/19: 自分の経験に価値や意義を与えようとすれば、その途端に未熟なまま固まってしまって、そこに含まれていた珠玉のようなものを失うのです・・・真理は経験が消え去ったあとに残っているものです(バーナデッド・ロバーツ(雨宮一郎、志賀ミチ訳)『自己喪失の体験』)
2023/4/22: 無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう-最も秀れた人々は苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだと(ロマン・ロラン(片山敏彦訳)『ベートーヴェンの生涯』)
2023/4/23: 僕は永遠の子ども、ー僕は熱狂する人たちの歩みにいつも従いましたが、彼らの中にいたいとは思いませんでした(エゴン・シーレ(伊藤直子訳)『エゴン・シーレ【自作を語る画文集】永遠の子ども』)
2023/4/29: およそ理解ということは、この場合、一元無二の道理、唯一一基の原動機を発明することに他ならず・・・そこでは何か機械装置が弾み出すように、一つの仮説が名乗りを上げ、あらゆる事を成しとげた一個の人間、あらゆる事象が映じて通ったにちがいない中心視点が、この怪異な動物の、本能はそこに宿りしままに、あの数多い形象の互の間に幾千という純粋澄明の繋ぎの糸を張りわたし、千種万態、あの謎のような構案を物した奇怪な脳髄が、現じてくる。(ポール・ヴァレリー(山田九朗訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』)
2023/4/30: この人の学問というのが道楽というのとも見境がなく、この人にはいつも別事を考えているのかとみえる魅力がある・・・私は、こういう人間が、この世界の生なる全体とその密度の中をどう動いているものか、その足どりをたどり、そこでは自然をいかにも手馴づけて、これを模してはこれに触れ、やがてはついに自然の中にもないものを考え出してみようという難題にまでも立ち向かうところを見ようというのである(ポール・ヴァレリー(山田九朗訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』)
2023/5/6: 世の大方の人は眼をもって見るよりも知恵分別で物を見る場合が多い。色ある空間のかわりに、概念の穿鑿(せんさく)をする。突っ立っている白っぽい立方体は、それにいくつかの窓ガラスの照りかえす孔でもあいておれば、すぐにもそれは家である(ポール・ヴァレリー(山田九朗訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』)
2023/5/6: 類推とは、心像の多面化をはかり、一つの心像の一部分と他の心像の一部分とを共存させ、その意図のあるなしを問わず、それぞれの心像の構造の繋がるところを見つける能力にほかならない・・・そこが心像の場たる精神を言葉をもっては説き明かせない所以である。ここでは、言葉は功力を失う。言葉は心像の場でこそ出来るものであり、言葉は精神の<眼>の前で噴き出すのである。言葉を解き明かしてくれるのは精神なのである。人間はこうしていくつもの心像図(ヴィジョン)を掲げ歩き、その図の力がその人間の力ともなるのである(ポール・ヴァレリー(山田九朗訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』)
2023/5/6: 「真の実在への道」、「真の芸術への道」、「真の自然への道」、「真の神への道」、また「真の幸福への道」などが、すべてかつての幻影として滅び去ったこんにち、学問の職分とは一体何を意味するのであろうか・・・かれ(トルストイ)はいう、「それは無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである」(マックス・ウェーバー(尾高邦雄訳)『職業としての学問』)
2023/5/13: “Soldiers! don’t give yourselves to brutes – men who despise you – enslave you – who regiment your lives – tell you what to do – what to think and what to feel! Who drill you – diet you – treat you like cattle, use you as cannon fodder. Don’t give yourselves to these unnatural men – machine men with machine minds and machine hearts! ” “You, the people have the power – the power to create machines. The power to create happiness! You, the people, have the power to make this life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.” (Charlie Chaplin, “Dictator”, https://www.youtube.com/watch?v=J7GY1Xg6X20)
2023/5/20: ヨーロッパのような生存競争の激しい深刻さのないことが、すべての人たちの感情をどれほどゆるやかに伸び伸びとさせ、美しい家族的親愛さを湛えさせているのであろうと、これを羨まれました・・・ことに能楽のしっとりと落ちついたゆるやかさのなかに、象徴的な複雑さを含んだ緊張しきった動作のあるのに、むしろ驚異の感を抱かれたのでした。冥想的な哲学的なこころに浸されて、教授はいつまでもそのまえに座ろうとせられました。またそれとともに一方では古代的な要素を多く含んでいる雅楽にも異常な興味を感ぜられました。東洋風な古画に接しては、陰影をもたないはっきりした輪廓線の鋭さにいつも眼をつけられました。また写実や投射法を無視した構図に対しても、そのおのずからな感情に導かれて、それらが少しも観照を妨げないことに注目されました(石原純『アインシュタイン教授をわが国に迎えて』【1923年】)
2023/5/27:
・真理こそ時のひとり娘であった(人生論)。
・自由のあるところに秩序はない(人生論)。
・まず最初に終わりを考慮せよ(人生論)。
・倦怠より死を(霊魂について)。
・孤独であることは救われることである(霊魂について)。
・出来ないことを願ってはならぬ(霊魂について)。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ(杉浦明平訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)
2023/5/28:
・あわれな柳は、そのすらりとした枝をのぞみの大きさにひろげ空の方へ向けるのをみるよろこびを味うことができぬのを知った・・・二つに分れて倒れると柳は空しく自分自身のことをなげき、自分が絶対に幸福になれないために生まれてきたことを悟った(寓話)。
・・・・ああ、この悪鬼(巨人)に対していかにさまざまな襲撃が加えられたことであろうか。だが、あらゆる攻撃は無駄であった。ああ、かわいそうな人々よ、難攻不落の城塞も、高い城壁も、大群衆をなしていることも、家も宮殿も、おまえたちの役には立たないのである。蟹やこうろぎのように、小さな穴や地下洞以外に何も残されていない・・・(巨人について)
(レオナルド・ダ・ヴィンチ(杉浦明平訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)
2023/6/4:
・人間たちの作品と自然のそれとの間にある比は人間と神との間にあるそれに等しい(「絵の本」から)。
・美しいもの必ずしも善ではない(光、影、色)。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ(杉浦明平訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)
2023/6/11: 空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ
(夏目漱石『人生』)
2023/6/18:
・自然は、経験の中にいまだかつて存在したことのない無限の理法にみちみちている(自然)。
・動かされたあらゆる物体は、彼の中に動かし手の力の印象が保存されるかぎり、いつまでも動く(力、運動)。
・太陽は動かない(天文)。
・焔の生きていないところには呼吸する生物も生きられない(焔)。
・可動物が空気に衝突する速度が早ければ早いほど、それだけ多量の空気が凝縮される(鳥の飛翔)。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ(杉浦明平訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)
2023/6/25: 「われわれは、お互に誤解し合う程度に理解し合えば沢山だ(ヴァレリイ)」(小林秀雄『モオツァルト』)
2023/7/1:
・籠の鳥も、春になれば、何かの目的に仕えねばならぬところだとはよく承知している…僕等を幽閉し、監禁し、埋葬さえしようとするものが何んであるかを、僕等は、必ずしも言うことが出来ない、併しだ、にも係わらずだ、僕等は、はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と。(No. 133)
・一体どちらが主人なのか、理屈かそれとも僕か。理屈が僕の為にあるのか、僕が理屈の為にあるのか。(No. 164)
・現代の堕落した社会が、新生の光を背景に眺められる瞬間に、どんなに大きな憂鬱な影絵となって浮かび上がるか(No. 139)
・百姓達は野良仕事に忙しい、-砂運びの車、羊飼い、道を直す人夫達、肥料車。街道筋の小さな宿屋で、紡車を前にした婆さんを写生した。お伽話から出て来た様な、小さな黒い輪郭-明るい窓に向った小さな黒い輪郭、その窓からは、晴れた空、繊細な緑の野を横切る小径、草をつつく鵞鳥の群れが見えた。やがて薄暗くなる。静寂と平和が、こういうものすべてを包む様を想像してほしい。秋の葉をつけた背の高いポプラの並木道、右も左も、見渡す限りのヒイスの原、その中を貫く真っ黒な泥濘の大通り、あちらこちらに泥炭小屋の黒い三角の半影、その小さな窓から、貧しい焚火の赤い灯がチラチラする、周りには、空を映した汚い黄色な水溜り、その中では樹の幹が腐っている、白っぽい空の下で、夕方の薄明のなかにある、こういう何や彼やごたごたしたものを想像してほしい、何処も彼処も、黒と白の対照だ。そう言う中に、羊の群れを連れた羊飼いの荒々しい姿が現れる、半分は泥、半分は毛の楕円形の塊りが、押合いへし合い乍らやって来る。囲まれる。ぐるりと廻って、ついて行く。羊どもは、泥濘の道を、さも厭そうに、のろのろと歩いて行く。遠くの方には、百姓家が、ぼんやりと見える。苔の生えた屋根や、藁や泥炭の堆積が、ポプラの間にちらほらする。羊の小舎も亦三角形の半影になる-夜が来る。戸は暗い洞窟の入り口の様に開け放たれる。後の板張りの裂け目から、空の光が僅かにさす。泥と毛の塊りの旅隊は、洞窟の中に消える。羊飼いとランプを持った女が戸を閉める。これが、僕が昨日聞いたシンフォニイの終局だ。1日は夢の様に過ぎた。(No. 340)
(小林秀雄『ゴッホの手紙』)
2023/7/9:
・日本風の色の単純化について言っているのだよ…彼等は、娘の艶のない青白い肌と黒い髪のコントラストを、驚くほど巧みに表現している、而も一枚の白い紙に筆を四度使っただけで。(No. VI)
・現代の社会では、われわれ芸術家は、壊れた水差しに過ぎぬ。(No. 579)
・僕は、自分に振られた狂人の役を、素直に受け容れようと考えている…オランダの詩人の言葉を知っているか、『私は地上の絆以上のものでこの大地に結び付けられている』、これが、苦しみ乍ら、特に所謂精神病を患い乍ら、僕が経験したことである。(No. 581)
・ドービニイの庭、前景は緑と薔薇色の芝生。左手は、緑と淡紫の灌木と白っぽい葉をつけた立木。中央に薔薇の花壇、右手は、木戸と壁、壁の上には、菫(すみれ)色の葉をした榛(はしばみ)の樹。それから、ライラックの生垣と円く刈り込んだ菩提樹の列、背景の家は桃色、青みがかった瓦を乗せている。ベンチが一つ、椅子が三脚、黄色い帽子を被った黒衣の人物。前景には黒猫が一匹。空は淡緑(No. 651)
(小林秀雄『ゴッホの手紙』)
2023/7/15
・僕は決して男ざかりというものを体験しないだろう。子供から一気に白髪の老人になるだろうよ
・要するに僕にかけているものは規律なのだ
・どうか私を夢だと思ってください
(マックス・ブロート(辻瑆、斎尾鴻一郎)『フランツ・カフカ』)
2023/7/22
・僕は毎日地上から離れたくなる
・僕に欠けているものは僕自身だけだ
・われわれは神の頭に浮かびでる虚無的な考えそのものだ
・「じゃあ、この世界のそとに希望があるとでもいうのかい?」「あるともあるともー神にとってはねー、希望は大ありだーただわれわれにとっては存在しないんだ」
(マックス・ブロート(辻瑆、斎尾鴻一郎)『フランツ・カフカ』)
2023/7/30:
・祈りの形で書くこと
・夢のような私の内面の生を描きたいという気持が、他の一切を二義的なものにしてしまった
・人類が一つであるということ、これはどんな打ちとけた柔軟な資質の人であっても、たとえただ感情的にもせよ時折は疑いを抱くことがらである。しかし他面またこれは、全体としての人間の発展と個人としての人間の発展、この両者間の完全な一致というものが絶えず求められてゆくというその点で、誰の目にも明瞭になる、いや少なくとも明瞭になるらしいのだ。個人のかたく閉ざされた内奥の感情にあっても、この例に漏れないのである
・われわれの芸術とは、真理の光によって目を眩ませていることにほかならぬ。身を退けようとするそのしかめ顔に当てられた光だけが真実なのである
(マックス・ブロート(辻瑆、斎尾鴻一郎)『フランツ・カフカ』)
2023/8/6:
・唯一の解決は窓から跳び出すことにあるようだ
・もう遅い。悲しみの甘さと愛の甘さ。彼女に舟の中で笑われる。常に死の欲求とまだ生きていようとする本能とがある、それのみが愛だ
・私をあわれんでください。あなたは私のものです
(マックス・ブロート(辻瑆、斎尾鴻一郎)『フランツ・カフカ』)
2023/8/13:
・死はわれわれの眼前にある
・それでも私は、私のたいへんな思い違いでなければ、だんだんに近づいているのだ。ちょうど、どこか森の中の空地で精神的な闘争が行われているかのようである。私は森の中に這入ってゆく、だが何も見いださない、そして非力のためまもなく急いで出て来てしまう。往々私はー森を離れるときーあの闘士たちの武器の響きを耳にする、もしくは耳にするような気がする。ひょっとすると闘士たちの視線が森の暗闇を通して私の姿を求めているのかもしれない、だが私は彼等についてほんの少ししか知らないし、ごく好い加減なことしか知らないのだ
・だがもしもお前が毅然としているならば…そのときには、お前も変わることなき暗き彼方を見るだろう。そこからは、ただ一度だけ車がやってくる以外、何物も来ることはあり得ない。車は近づいてくる。次第次第に大きくなる。そしてお前のかたわらに到着するその瞬間に、世界を満たすものとなる。ーそしてお前は車の中に身を沈めるのだ、ちょうど嵐と夜を衝いて走る旅馬車のクッションに子供が身を沈めるように
・夢どもが到着した。河を遡ってやって来た。梯子をつたって埠頭の岸壁を上がってくる。みんなは立ちどまって彼等と話をかわす。彼等はいろいろなことを知っている。ただ自分たちがどこからやって来たかということだけは知っていない。…何故君達は腕を振り上げるのだ、私たちを腕に抱きしめるかわりに
(マックス・ブロート(辻瑆、斎尾鴻一郎)『フランツ・カフカ』)
2023/8/20:
・良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。
・わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機械をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。
(デカルト(谷川多佳子)方法序説)
2023/8/27:
前後際断(沢庵禅師)
2023/9/2:
結果自然成(禅語)
2023/9/9:
一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。
第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも複雑なものの認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昂るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
(デカルト(谷川多佳子)方法序説)
2023/9/16:
当座に備えて、一つの道徳を定めた。
第一の格率は、わたしの国の法律と慣習に従うことだった。
わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。
わたしの第三の格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。
最後にこの道徳の結論として、この世で人びとが携わっているさまざまな仕事をひととおり見直して、最善のものを選び出そう、と思い至った。
(デカルト(谷川多佳子)方法序説)
2023/9/30:
色即是空
空即是色
(般若心経など)
2023/10/8:
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
(10世紀末から11世紀半ば)
2023/10/14:
・良き趣味がますます世界に広がりつつある。それが初めて育ったのはギリシアの空のもとだった。ギリシアには異民族たちの各種の発明がもたされたが、それらはすべて言うなれば始まりとなる種子でしかなく、ほかでもないギリシアの地で育って初めて、新たな性質と形態とを獲得した。ミネルウァが、四季温和のゆえ賢人を生む土地であるからと、ギリシア人の居住地に定めたと伝えられる、この地において。
・あらゆる芸術には二重の最終目的がある。すなわち、楽しませかつ教えねばならない…芸術家は、目に見せる以上に、思考の材料となるものを残すべきであり、それができるのは、寓意にみずからの思考を隠すのではなく、思考に寓意という衣を着せて表現するすべを学んだときである。みずから選んだにせよ、人から与えられたにせよ、詩的にされた主題、もしくは詩的にすべき主題があるならば、芸術は芸術家に霊感を与え、彼の内部ではプロメテウスが神々から盗んだ火が燃え立つであろう。
(ヴィンケルマン(田邊玲子)『ギリシア芸術模倣論』)
2023/10/21:
真理は「時」の娘であり、権威の娘ではない。
(フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』)
2023/10/28:
・論証ではなく実験が証拠となるあらゆる問題においては、そのすべての部分あるいはすべての場合を完全に枚挙することなしには、普遍的な主張をすることはできない。(真空論序言)
・サシ氏「けっして<<私はこれを失くした>>と言ってはいけない。むしろ、<<私はこれを返した>>と言わなければなりません」(サシ氏との対話)
・サシ氏「これほどおぞましい(アリストテレスによるキリストの)略奪が行われたのちに、最近、別の男(デカルト)が出現し、アリストテレスを略奪し、彼を殺害する。結構なことだ。死者の数が増えるほど、敵の数は減るのだから。次にはこのデカルト氏にもおそらく同じことが起こるだろう」(サシ氏との対話)
・サシ氏「彼(デカルト)らは、驚嘆すべき絵画を目の前にして、美しい全体に感嘆する代わりに、細部の個別の色彩にとどまり、「この赤はなんだろう、何からできているのか、あの材料からか、いや別のものだ」と言うばかりの無学の徒のようなもので、絵の全体の構成をじっくり眺めようとはしない。賢者ならそれを眺めて、その美しさに魅惑されるだろに」
・一方は、人間の義務は知ってもその無能力は知らないために高慢のうちに陥り、他方は、無能力は知っても義務は知らないため無気力に堕してしまいます。(サシ氏との対話)
(パスカル(塩川徹也・望月ゆか訳)『小品と手紙』)
2023/11/4:
・こういうわけで、説得術は論破する技法ばかりでなく、それと同じくらい、気に入られる技法から成り立っている。(幾何学的精神について)
・定義のための規則
- それ自体できわめてよく知られているので、それを説明するのにもっと明瞭な用語がない事柄については、いっさい定義しようとしないこと。
- いささか不明なところがあったり、あいまいだったりする用語は、いずうれも定義なしには容認しないこと。
- 用語の定義においては、完全に既知のものになっているか、すでに説明ずみの言葉しか使用しなこと
・公理のための規則
- 必要な原理については、それがいかに明瞭で自明であろうとも、承認してもらえるかどうかを要請せずには、いっさい容認しないこと。
- それ自体として完全に自明な事柄しか、公理として要請しないこと。
・論証のための規則
- それ自体としてあまりにも自明で、それを証明するためのもっと明瞭なものがない事柄については、論証をいっさい企てないこと。
- いささか不明なところがある命題はすべて証明すること、そしてその証明にあたっては、きわめて自明な公理あるいはすでに承認ずみないし論証ずみの命題だけを使用すること。
- つねに頭のなかで、定義された用語の代わりに定義を置き換えること。これは、定義によって意味を限定された用語に付きもののあいまいさによって誤らないためである。
(幾何学的精神について)
(パスカル(塩川徹也・望月ゆか訳)『小品と手紙』)
2023/11/11:
・(数学では)一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。
(岡潔、小林秀雄『人間の建設』)
2023/11/18:
「青年が通された小部屋は、黄いろい壁紙がはりめぐらされていた。窓辺にはゼラニウムの鉢がいくつかと、モスリンのカーテンがあった.夕陽がそれらすべたの上に、どぎつい光をあびせていた..」
たとえつかのまであろうと、精神がこのようなモティーフを思いえがくということを、私は認める気にならない。
(アンドレ・ブルトン(巌谷國士訳)『シュルレアリスム宣言』)
2023/11/25:
・のこるは狂気である。
・ひとは「学ぶ」のではなくて、もっぱら「学びなおす」にすぎないと考えられるだろう。
・この夏、薔薇は青い。森、それはガラスである。緑の衣におおわれた大地も、私には幽霊ほどのかすかな印象しかあたえない。生きること、生きるのをやめることは、想像の中の解決だ。生はべつのところにある。
(アンドレ・ブルトン(巌谷國士訳)『シュルレアリスム宣言』)
2023/12/2:
数学を勉強しているとき、本に書いてあること、いくつかの公理から出発していろいろな結論を証明して、それをもって大きな体系を組みたてていくその各段階の論理の展開はすっかりわかっても、全体的に一向に理解したという気もちの起こらないことがある。つまりあと味がよくないのである…数学を勉強してほんとに分かったという気もちは、おそらくその数学が作られたときの数学者の心理に少しでも近づかないと起り得ないのであろうか。
(朝永振一郎著・江沢太洋編『科学者の自由な楽園』)
2023/12/9:
・そして最後に知識をば、生意気にも人間的知能(哲学)の小部屋のうちにではなく、心低くして大きな世界(自然)のうちに尋ねるように…また自ら裁判にかけられている者(哲学者)の行なう判決に、服するよう要求されてもならないのである。[大革新序言]
・自然の下僕であり解明者である人間は、彼が自然の秩序について、実地により、もしくは精神によって観察しただけを、為しかつ知るのであって、それ以上は知らないし為すこともできない。[一]
(フランシス・ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム』)
2023/12/16:
・人間の知性は乾いた光のようではなく、意志や情念から影響を受ける、それが「人々の望みに応ずる諸学」を、生み出すものなのである。[四九]
・人間の知性のこの上もない最大の障害と錯誤とは、感覚の鈍さと無能と虚偽とから生じ、その結果感覚を打つものは、たとい有力ではあっても、感覚を直接動かさないものに比べて、より重きをなすようになる…あらゆるより真実な自然の解明は、事例と適格適切な実験とによって成しとげられ、そこでは感覚は実験についてのみ、実験が自然および事象そのものについて判定するのである。[五十]
・人間の知性はその固有の本性から、抽象的なものに突進し、かつ流動的なものを恒常的であると考える。しかし自然を抽象するよりは、分割する方がすぐれており、これは他の諸派よりも深く自然に踏みこんでいるデモクリトス派が、やったことなのである。「五一」
(フランシス・ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム』)
2023/12/23:
・古いものの上に新しいものを加え、接ぎ木することによって、諸学における大きな進歩を期待しても無駄である。[三一]
・「大衆が一致しかつ喝采するとき、人々はなんの過ちをし罪を犯したかを、自ら吟味すべきなのだ」(フォキオンの言葉)[七七]
・人間の記憶や学識がほぼ係わっていた二十五世紀のうち、学問を生み出しその進歩に効果あったのは、ほとんど六世紀ぐらいしか取り出し得ないであろうから。それというのも、地域について劣らず、時代にも不毛地や沙漠 <中世の暗黒時代> があるからである。[七八]
(フランシス・ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム』)
2023/12/30:
・(エピクーロスがもたらしたことは)おのおのの物には、如何にしてその能力に一定の限度がもうけられているか、また深く根ざした限界があるか、の点を明らかにしてくれたことである。[六二-七九]
・(しかし)純理の初歩にふみこむことは、不敬神にわたりはしいか…とんでもない、正にその反対だ。かの宗教なるものの方こし、これまではるかに多くの罪深い、不敬神の行いを犯して来ているではないか…彼女(イーピアナッサ)の乙女の髪に巻きつけられた髪飾(イーンフラ)が、ほほの両側に、同じようにたれさがり、父(アガメムノーン)が悲痛にとざされて、祭壇の前に立つのを見、この父親のそばには、従者の司祭たちが[犠牲を切る]刃物を、かくし持つのを見、また市民たちが、自分の姿をながめて涙を流してくれるのを見てとるやいなや、イーピアナッサは恐ろしさにかられて、沈黙し、膝をくずして地上にべたりとすわってしまった…宗教とは、実に、かくも甚だしい悪事を行わせる力を持っていたのだ。[八0-一0一]
・物の一定の種子[原子]が、おのおの時を経て集合した時に、はじめてあらゆる生物が、現れて来るのであって、その上適当な季節がめぐり合わせ、生命に充ちている大地が[生れたての]うら若い生物を[地下から]光明世界へ安全に出してやるからに外ならない。ところが、もし仮りにこれらのものが、無から生じるとしたならば、これらは不定の期間に、一年の他の違った季節に、忽然として生れ出るかも知れない。[一五九-二一四]
・詩の行も、言葉も互いに異なった「あるふぁべっと」(エレメント)から成り立った別のものであることは、認めざるを得まい…他のものの場合もこれと同様で、多くの原子は、多くの物に共通ではあるが、しかし、相互に混じ合って、全く異なった全体を構成し得るのであり、人類も、穀物も、繁栄する樹木も[種々]異なった原子から成り立っていると云っても正当なわけである。[六六一-六九九]
・世界が生れ出て来た以来、海や陸が始めて誕生した日以来、太陽が形造られた時以来、多くの原子が外から加えられ、多くの原子が周囲に集められ、これを宏大なる宇宙が、投げつけることによって、まとめ上げるに至った。これより海や陸が成長し、天界はその空域を得、その屋根を地上遠く、高くもちあげ、そこに空気が生ずるに至った。即ち、あらゆる原子があらゆる場処から[相互の衝突による]打撃によって、夫々の物に配分され、自身の種類に落着き、液体性原子は液体となり、地は地の原子によって成長し、火の原子は火を、空気の原子は空気を造り、万物の造物主たる、巧みなる自然は万物を、その成長の極限に達せしめるに至ったからである。[一一0五-一一四七]
(ルクレーティウス(樋口勝彦)『物の本質について』)